概要
モットヨッカイチ 2017年1月号 四日市 菰野 川越 朝日 地域情報 株式会社Motto.interactive(モットー. インタラクティブ)
3 鎮座の年を建仁2年(1202)とし、平成14年(2002)には鎮座800年奉祝記念行事が執り行われました。諏訪信仰が全国に流布する歴史においては、ごく初期に属する貴重な事例といえそうです。これを裏付ける資料である「建仁二年中信州諏訪上下御社をここに勧請す」【東海道名所図絵(寛政九年)】などの文献は創祀の時代から、かなり後年に記されたものであるため、歴史的には不明瞭でありました。 明治時代に宮司をつとめた生川鐵忠は、鎮座由来などを克明に調査し、「三重県神社誌」などへもその調査を報告しています。それによると、勧請者は当地発展の礎となった初代浜田城主の田原美作守忠秀ではないかとし、鎮座の年代は応永年間(1394-1428)と推測しています。 その理由として、忠秀の父である田原孫太郎景信は上野の国赤堀から伊勢の国栗原(現在の四日市市常盤地区赤堀)に移住しており、田原家では居城のある上野国赤堀に屋敷神として諏訪明神を祀っていたため、一族の移住によって四日市の地にも諏訪明神をお祀りすることはごく自然なことであるということ。また、田原家の家紋である「庵に八十万」を、諏訪神社では神紋の梶の葉の他に替え紋として用いてきたことをあげ、「ここに御分祀申し上げし崇敬者は浜田の城主俵美作守忠秀なり。創立は応永年代というを信ずべし」と自らの著書「県社諏訪神社御鎮座由来記(大正二年九月発行)」に記しています。四日市開拓の歴史と照らし合わせても、鎌倉時代初期の当地に諏訪神社を勧請するほどの実力者がいたとは考えにくく、少なくともその年代より下ると鐵忠は考えたのではないでしょうか。ただし、田原忠秀が築城したのは、応永年間よりあとの文明年間(1469-1487)とされ、忠秀が勧請したとするのであれば、鐵忠説より、さらに後の時代(文明年間)になります。しかし、田原家(赤堀家)がこの地方(北勢地域)に進出するのは古くは文和2年まで文書で遡ることができ、通説では景信がこの地に移ったのが応永元年とされていますので、鐵忠は応永年代としたものと思われます。■鎮座時期のいわれ 江戸時代になると四日市は東海道の宿駅に定められ、浜田と四日市は一体の町場に発展します。また、本能寺の変の顛末から徳川家康ゆかりの地と考えられたためか天領となり、享保9年から享和元年までは大和郡山藩領となるものの、その後天領に復しました。 東海道に面していたことから、道中の旅人も多く参詣し、「伊勢参宮名所図会」「東海道名所図会」にも街道の名所として紹介されるようになります。また、近世初頭が嚆矢と考えられている「四日市祭」(当時は「諏訪明神祭」と称えられていたようです)は、街道屈指の殷賑さを誇る祭礼として近郷近在の見物客を集め、その名を広めました。往時は「正一位諏訪大明神」と呼ばれていましたが、この神位は卜部家から下された宗源宣旨であったため、明治の諸改革で明神号とともに廃されました。 さらに、神社を中心に据えた行政改革の方針によって、明治6年3月には、新しい社格制度によって県社(三重県)に列せられ、当時の行政区であった第一小区、第二小区、第三小区の郷社も兼ねることになります。そのおりに、「市濱諏訪神社」と改称することも検討されましたが、正式に現在の名称である「諏訪神社」となりました。また、隣接する地を明治37年に公園整備し「保光苑」と名付け、明治40年には四日市市へ移管。さらに大正5年には「諏訪公園」と改称し、現在も市民のいこいの広場として親しまれています。このように呼称や公的な立場などは変わっても、広く信仰を集めたが、昭和20年6月の四日市空襲で灰燼に帰します。また、翌年2月には、神道指令により神社の国家管理が廃止されるのと同時に社格制度も廃止されました。その後、昭和26年には、崇敬者の厚い御志により、本殿等再興のための御用材奉曳式や上棟式も華々しく、念願の再建がなり、順次境内の整備もなされ現容が整いました。■近世の隆盛と明治以後の変革▲東海道名所図会に紹介された 諏訪神社▲旧浜田の町衆が四日市祭に着る 装束に染められた「庵に八十万」▲明治以降に発行された絵葉書に▼残る諏訪神社の姿住 所/四日市市諏訪栄町22-38(近鉄四日市駅より徒歩5分)ご祈祷/8:00~16:00http://www.suwajinjya.jp・商売繁盛 ・安産祈願主なご利益 ・厄除 ・合格祈願 等℡:059-352-2422諏訪神社