ブックタイトルモットヨッカイチ 2015年12月号 四日市 菰野 川越 朝日 地域情報 イーモット
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モットヨッカイチ 2015年12月号 四日市 菰野 川越 朝日 地域情報 イーモット
17▼1922年(大正11) 四日市市立商工補習学校開校▼1935年(昭和10) 四日市市立商工学校と改称▼1948年(昭和23) 県立に移管▼1982年(昭和57) 日永地区に移転▼1926年(大正15) 四日市市立商工専修学校と改称▼1945年(昭和20) 戦火で校舎消失古い文書によれば同校の起源は遠く1905年(明治38年)の「夜学会」にさかのぼり、大正11年、当時の四日市市長稲見貞蔵氏が学校長兼務となって、開校した。校舎は間借りの小学校の一室で、暗い裸電球の下で熱心に勉学した。世間では別名〝でっち丁稚学校″と呼んだ。四日市市の都市計画事業の進展と、校地のきょうあいか狭隘化と、周囲の環境悪化などを考慮して、20年間に及ぶ移転事業の最終結論として、日永地区に移転した。同校の今日があるのは、学校に関係する全ての者が一致協力して、その発展に尽くした愛校心によるものである。6月18日の四日市大空襲により、同校も消失した。生徒は学校並びに市の復旧作業に励み、その働きぶりは見る人々に感動を与えた。9月から追分の元海軍燃料しょう廠の寄宿舎を仮校舎として授業を再開した。保護者と同窓会は自らが戦災に遭いながらも、母校再建活動にいち早く立ち上がった。校舎の移築・新築が進み元の地に復帰したが、被災前の規模に復興する事は困難であるとして、県立に移管された。また戦後の学校制度変換に伴い、四日市商工学校、四日市実業高等学校、四日市高等学校(浜田部)と学校名を改称した。同窓会は運動場用地購入資金の寄付活動を展開する。経済の発展は有為の人材を育成してこそ初めて達成される事を洞察された伊藤傳七翁は、私財を投じて同校を建設して四日市市に寄贈した。その翁の心を動かしたのは、〝学・業・徳″の人間形成に励む夜学生徒の真剣な態度であった。四日市市の将来は勤労青少年を対象とした同校を原動力とすべしとの声が産業界・官界に広がる。たつみ巽校長は機会あるごとに「本校の前途は君らの双肩にかかっている」と励まし、教師も生徒も一致団結して、これに応え励んで成果を出した。帝都(東京)に出向いて地元産品を販売する商業実習も行われた。※※狭隘化(きょうあいか)…面積などが狭くゆとりがないこと