ブックタイトルモットヨッカイチ 2015年11月号 四日市 菰野 川越 朝日 地域情報 イーモット
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モットヨッカイチ 2015年11月号 四日市 菰野 川越 朝日 地域情報 イーモット
21▲昭和30年代 中部7県操法大会優勝当時の 市長、平田佐矩(ひらた すけのり)氏と▲昭和50年代神前分団※公益財団法人 日本消防協会ホームページより抜粋▲昭和10年代 警防団▲昭和10年代 四日市市警防団▲昭和30年代 羽津分団▲昭和30年代 羽津分団中部7県操法大会【大正時代】消防組は国内治安を担当する警察の補助的な役割も果たしながら急速に整備されていきましたが、常設の消防組織は東京と大阪にあるのみでした。そこで大正8年(1919年)勅令「特設消防署規程」により京都市、神戸市、名古屋市、横浜市の4都市にも公設消防署が設置されました。【昭和(戦前)】昭和に入ると国際情勢の変化や時局の切迫に伴い、国防上重要な都市の消防体制を強化するため各都市に順次、公設消防署が設置されていきました。その一方で消防組は、従来の水火災の鎮圧という主任務のほか、新たに「防空」という任務が加えられることになり、昭和14年(1939年)勅令「警防団令」により、消防組は「警防団」と名称を変え、防空監視や空襲爆撃下の救護活動の任務も担うことになりました。【昭和(戦後)】敗戦に伴い、昭和22年(1947年)勅令「消防団令」により、警防団という戦時体制の消防は「消防団」として再出発することになりました。我が国の消防は明治以来、警察機構の中にありましたが憲法が変わり、新たに「地方自治法」が施行されたのに伴い、昭和23年(1948年)「消防組織法」により市町村長が消防の組織と運営の管理に当たることになり、名実ともに「自治体消防」に移行しました。昭和38年には救急業務が法制化され、救急体制の整備が始まりました。また、昭和40年代以降常備化が進められるとともに、一部事務組合方式や事務の委託方式を活用して、市町村単位でまとまった消防体制をとる広域化も進められました。戦後における我が国の経済復興はめざましく、消防体制も着実に整備が進み、常備消防と消防団が車の両輪となって国民の安心・安全に大きな役割を果たして来ました。