ブックタイトルモットヨッカイチ 2015年11月号 四日市 菰野 川越 朝日 地域情報 イーモット
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20▲昭和10年代 常磐消防組八阪神社にて▼昭和10年代 常磐消防組八阪神社にていつもご愛読ありがとうございます。今回の四日市の歴史は、「消防の歴史」をとりあげます。四日市市消防本部の多大なるご協力を得て、素晴らしいお写真と資料をご提供いただきました。皆様にこの貴重な歴史写真をお届けすることができて、私もとても嬉しく思っております。さて、皆様を火災の恐怖や被害から守ってくれている消防ですが、その歴史のスタートは時代劇ドラマの「暴れん坊将軍」でお馴染みの方も多いですよね!私も小学生の頃に祖父母と夢中になってテレビで観てましたが、まさにあの時代に「火消」がスタートしています。時代は変われどその頃から一貫して言えるのは、「炎に立ち向かう勇気と、人々を守る使命感の熱いヒーロー達」によって、いざという時に救われているという事です。 彼等の歴史、彼らの活躍が無ければ、今日の我々は無いと言っても過言ではありません。警察官しかり、消防官も、職務を全うする為に日頃から様々な訓練や勉強は勿論、我々に大切な事を常に呼びかけてくれています。それは、「自分の身は自分で守る」という事です。事件や事故に合わないように防犯意識を高め、交通ルールや交通モラルを守らなければなりません。火事にならないように、火の元チェックや火の始末を怠ってはなりません。震災や災害時に少しでも冷静に判断・対処できるように、又は被害を最小限にくい止めるために、あらゆる事を想定した準備と心構えと、知識を身に付けねばなりません。そしてそれらを、自分だけではなく、自分の大切な家族や友人・知人にも伝えて皆の意識を自分から変えていかねばなりません。それらが我々に出来ていれば、彼等の活躍がもっと減らせるはずです!彼らが出動しないに越したことはないはずです。今回の歴史のページを通じて、そのことと今一度皆さんが向き合って頂けるようなきっかけになればと思います。我々モット・ヨッカイチスタッフ一同も改めて意識改革をし、今後も皆様に「防犯・防災情報」でお役に立てればと考えてます。まずは、このページをごゆっくりご覧ください!【写真提供】四日市市消防本部 様vol.52 消防の歴史四日市の歴史江戸 明治 大正 昭和 平成▲大正10年代 八郷消防組【江戸時代】【明治時代】 戦国時代の戦乱が治まり、徳川幕府による治世が続きました。都市の繁栄に伴い「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるほど火事も頻繁に発生しました。江戸時代の火消組織は「武家火消」と「町火消」に大別され、定火消は公設消防、町火消は義勇消防の元祖と言われます。『武家火消』?定火消(じょうびけし)慶安3年(1650年)幕府は旗本2人を火消役に任命し、「定火消」という常設の消防組織をつくりました。火消役の屋敷にはいつも役人や火消人足がいて、火事が起こればすぐ出動できるように備えていました。?大名火消(だいみょうびけし)正徳2年(1712年)幕府は、譜代大名による消防隊を作り、主に江戸城や武士の家を火事から守ることにしたのが「大名火消」です。江戸城の周辺に置かれ、「方角火消」(ほうがくびけし)とも呼ばれました。 明治維新に伴い定火消や大名火消は廃止になりましたが、町火消は東京府に移管され、明治5年(1872年)「消防組」に改組されました。消防事務は、東京府、司法省警保寮、東京警視庁などと所管が転々としましたが、明治14年(1881年)警察、消防の事務はいっさい東京警視庁に移管となり、これが明治時代の消防の基礎になりました。しかし、まだ全国的には公設の消防組は少なくほとんどが自治組織としての私設消防組であり、それも名前だけというのが多かったのが実情でした。そこで政府は消防制度を全国的に整備して効率的な消防組織を育成するため、明治27年(1894年)勅令で「消防組規則」を制定し、消防組は知事の警察権に入り、費用は市町村の負担とされました。『町火消』武家による火消は武家を守るのが重点で、一般の町屋のためには不十分だったため、8代将軍吉宗は南町奉行の大岡越前守忠相と大火対策を協議し、享保3年(1718年)、町人による「町火消」を編成させました。当初は町屋の子弟や奉公人たちで組織されていた「店火消」(たなびけし)を機敏な活動が得意な鳶職(とびしょく)の者を中心とする組織に編成替えしたもので、経費は町人の負担、組員は無報酬でした。名高い「いろは48組」や本所・深川の16組など、1万人以上の火消が活躍していたと言われています。