ブックタイトルモットヨッカイチ 2015年3月号 四日市 菰野 川越 朝日 地域情報 イーモット

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概要

モットヨッカイチ 2015年3月号 四日市 菰野 川越 朝日 地域情報 イーモット

21 オート三輪は、三輪自動車の貨物自動車である三輪トラックを指す。日本で用いられる呼称。軽便・安価で、悪路と過積載に強く、小回りの利く特性から日本では1930~1950年代に隆盛を極めたが、その後、より価格性能比に勝る四輪トラックの登場により取って代わられ衰退した。  「 オ ー ト 三 輪 」 の 呼 称 は 、自 走 式 、 つ ま り エ ン ジン付き三輪車の意味で、日本で三輪車の多数派であったトラック、ないしは、その派生形の貨物車を指す語として定着している。客室を架装してタクシーにも使用された例があり、極まれに乗用登録のものも見られるが、極めて例外的なものである。日本ではオート三輪が第一次世界大戦後に独自発生し、当時の国情に合致し、独特の発展を遂げた。1917年頃、大阪で前2輪・後1輪で前方に荷台を持つ自転車式貨物車(フロントカー)に、アメリカ製のエンジンキットを装備したものが出現したのが最初と見られている。  ま も な く 有 力 エ ン ジ ン メ ー カ ー は オ ート 三 輪 生 産に乗り出し、大手メーカー主導の体制が確立された。中小事業者からの需要の高まりを背景に販売網も整備され、1930年代後半には「ダイハツ」、「マツダ」、「くろがね」の三大ブランドへの評価が定まっていた。戦時中はより大型の車両の生産が優先され、ごく小型で民需が主のオート三輪の生産はほとんど途絶えた。主要な大手オート三輪メーカーは、設備を活かした別種の軍需生産に従事することになった。また戦時体制により、アッセンブリーメーカーに過ぎなかった零細企業はほとんど全てがオート三輪市場から撤退した。   戦 後 、ト ラ ック 生 産 が 再 開 さ れ る と 、 廉 価 な オ ート三輪への需要も復活した。零細メーカーは戦時体制下の統制でほぼ淘汰されたが、戦前からの三大大手メーカーに加え、終戦で市場を失った航空機産業からの転入企業(中日本重工業・愛知機械工業・明和自動車工業・三井精機工業など)が多く参入し、新技術の導入と合わせて市場を活性化した。             (Wikipediaより抜粋)当時の中央制御室 基盤当時の中央制御室現在の中央制御室現在の建物を見ると、いかに大規模で素晴らしい建設工事だったかがよくわかりますね!!オート三輪(三輪トラック)発見!定かではありませんが、東洋工業(現マツダ)のT1100またはT1500かと思われます。ぜひ実車を見てみたいです!働く方の格好も当時の日本中、どこでも見られた定番スタイルです!石油を燃料として発電を開始した四日市火力発電所は、昭和63年に中部電力で初となるコンバインドサイクル発電設備を増設するとともに、燃料をLNG(一部LPG)に転換し、半世紀を経た今日も三重県内の約1/3を賄える電力を供給するだけでなく、最近ではガス供給拠点としても活躍しています。